DV被害を長期化させる思考停止
DVから逃げ、保護命令の申立てまでしているにもかかわらず、「私はDVなんて受けていない。相手が私に対してやってきたことは、暴力ではない。」と、 今なお、 どこかで思っている自分がいます。相手方は、警察に対しても、裁判所でも、完全に自分のDVを認めているのにもかかわらずです。
たいていどこの家庭でも、多かれ少なかれ、こういったことはあるはず。それなのに、DVだとか言って大げさに騒ぎ立てようとしているのか私は、と自分を責めてしまうこともありました。
DV加害者とひとつ屋根の下に住んでいるというのは、そうやって「この家にはDVなんて存在しない」と自分を誤魔化しながらでないと、生きていけない環境にいるということです。
DV被害を受けていて、思考が麻痺した状態に陥っている方って、とても多いのだろうな、と私は想像しています。その環境に長くいればいるほど、麻痺の度合いもどんどん進行して行って、異常なことであっても、だんだん違和感を覚えず、当たり前のことのように感じられるようになってしまいます。
できれば第三者の目がある状況を作るか、外部との関わりを通して、自分で、麻痺している自分に気が付けるようにならなければ、どっぷり沼にはまったみたいに、抜け出すのが困難な状態に陥るのではないでしょうか。
DV被害者の自覚
私の場合、出産する以前は、職場の同僚の何気ない日常のおしゃべりから垣間見える他の家庭の様子と比べて、うちの状況は他の人から見ると相当ひどいのかもしれない、と思うこともあったし、出産後は、子どもの通園先の他のお母さんのおしゃべりや、送迎や行事の際に見た他のお父さんたちの様子から、いろいろと感じるところはありました。
私にとって非常にインパクトがあったのが、警察の運転免許センターでトイレを使用したときに目にした貼り紙でした。トイレの個室内の正面の壁という、否が応でも読んでしまう場所に紙が貼ってあり、「こんなことはありませんか?」と、DVとされる行為の例が箇条書きで列挙され、「一人で悩んでいませんか?」と相談先の電話番号が書いてありました。ここで例示されていた行為のほぼすべてが当てはまっていました。
警察以外にも、役所や関連機関でトイレに行くと、洗面台に、財布やパスケースに入れて持ち歩けるようなカードが置いてあって、「一人で悩んでいませんか?」と相談先の電話番号が書かれていたりします。
そういった呼びかけがされていることは、どこかよその家の話だという思い込みのようなものがあったDVというものに対して、自分のことなんだという自覚を持つきっかけの一つになりました。
DVのある家庭は、児童虐待の温床となり得ます。
暴力で支配された状況に置かれていると、相手が子どもに暴力を向ける様子を目にしても、「これって、つまりは虐待しているってことか…。あれだけ世間でクローズアップされ、とんでもないことだと叫ばれている問題が、自分の家庭の中で起こっているということになるのか…。」と、ぼんやり思いながら、思いっきり相手を睨みつけて無言の抗議を示したりはしても、大体は、ただ見て見ぬふりしかできなかった、というのが正直なところです。下手に刺激してエスカレートさせることも恐れていました。DVに関する相談のなかで、子どもに対する相手の言動について伝えているときに、「その時、お母さんはどうされてましたか?」と問われたことが何度もあり、母親のくせに私はなんて卑怯なんだ、と自分を責めました。
相手が子どもに暴力を振るっても、同じようなことが二度三度と繰り返されるうちに、慣れとは恐ろしいもので、既成事実の積み重ねにより、まるでそれが当たり前かのように錯覚し、その状態に無意識のうちに適応して行ってしまうのが、恐ろしいところです。
とても身近なところで、父親の躾の行き過ぎにより子どもの命が失われた事件があり、その家庭では、それと同じ内容の躾がそれまでにも何度もあったと聞いたとき、まさに麻痺だと感じました。その子の母親ではなく、私がもし母親としてその場にいたとして、果たしてその子の死を回避できたか、と考えたとき、残念ながら私もやはりその子を守れなかったと思います。自分の家庭でも充分起こりうることで、決して他人事なんかじゃない!この環境にいつまでもいると子どもを守れないおそれがある、と危機感を持つきっかけとなった出来事でした。