父子関係

子ども

父親不在の是非

夫婦と子どもとで暮らしている家庭を、母子で飛び出すということ。それは、今すでにある家庭を、わざわざ自分から壊しに行くことであり、子どもの生育環境から父親という存在を奪ってしまうことでもあります。家を出ようと考えている自分は、身勝手そのものなのではないか?父親がいる生活が出来ているのに母子家庭への移行を子どもに強いるのは、子どものためには良くないことなのではないか?家を出るかどうかの様々な葛藤の中には、そういった思いも含まれていました。

この是非については、今も自分の中で答えが出せないでいます。ただ、元夫の場合は、そもそも育児も一切せず、父として自分の子どもと向き合うようなことを全くしない人だったので、子どもと私自身の身の安全を確保し、暴力と隣り合わせの家庭環境から子どもを引き離すことのほうを優先したのは、正解だったと思っています。

自治体の相談窓口の担当の方から、「経済的な面は置いておいて、それ以外で、現状、そのお父さんが居ることに、正直、何か意義ってありますか?」と問いかけられて、ハッとしたことを覚えています。

母子家庭というかたちで暮らし始めてからは、日々のあれこれに紛れてしまって、父親不在という状態を子ども目線で考察することを、あまりしないまま過ごしていましたが、最近になって、いろいろと考えさせられるようになってきました。

子どもなりの適応の仕方

「お父さんは死んだ」

私が知らないうちに、子ども自身が、自分で、自分の心を守るための対処方法を考えていたことを、 2年ほども経ってから知りました。

通園先や通学先でのおしゃべりで、話題がお父さんのことになったり、誰かが何気なくお父さんのことを聞いてきたり、といったシチュエーションは意外にあるそうです。

先生の目が届いている場面では、「〇〇くん、いまお母さんと二人で住んでるのよ。」とだけ言ってフォローして下さっていたようですが、子どもが自分で対応しなければならないときは、「お父さんは死んだ。」と言うことに決めているのだ、と2年も経ってから子どもが教えてくれました。たしかに、一度、そのように他の子のお母さんに言っているところを目撃したことがありました。

よその家はみんなお父さんとお母さんがいるのに、どうして僕の家だけお父さんがいないんだろう?僕のお父さんは、何か悪い人なんだなってことは知ってる。でも、悪いお父さんだから一緒に住んでないなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。だから、死んじゃったってことにしておこう。それだったら、ちっとも格好悪くないし、みんなだって納得する。

小学校に上がるか上がらないかぐらいの、まだ小さな子どもの頭の中では、そんなことが考えられていたようです。

父親という存在

最近気になっているのは、彼にとって、父親像というものが存在しない状態であること。まっとうな父親のモデルになり得る存在、父親のようにしっかり自分と向き合ってくれる存在が、今後成長するにつれてますます必要になってくるでしょうし、将来彼が父親になったときに、拠り所にできるお手本がありません。

母親のように接してくれる人なら、外にもいくらでもいるんですね。祖母、保育士、幼稚園の先生、同級生のお母さん、児童館などの係の方、等々。公共施設や役所や民間サービスの窓口を訪れたときも、母親がお話し中だったり用事をしている間に、だれか女性が母親の代わりに子どもの相手をしてくれることって多いです。

でも、父親代わりになってくれる人って、なかなか身近にいないですよね。男性の保育士や幼稚園教諭も増えて来てはいますが、まだまだ少ないです。